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書評

書評とは文字通り本を批評することです。しかし、書評のあるべき姿は何なのでしょう?

書評は、その書籍の要約を書いて、自分の意見を書くだけのものでしょうか。

私は、本を評価し、知識をつなげるためのものだと考えています。

辞書を英語に訳すと、encyclopediaになります。この単語のcycloの部分は、cycleという単語に酷似しています。つまり、知識はひとつのつながりになっているということです。

本の要約をして意見を書くだけなら、誰でもできます。しかし、知識をつなげるということは大変難しいことです。だからこそ、プロの方にしか書評の依頼は来ません。アマとプロの差はそこにあります。1冊の本からどのようなことを吸収し、自分の知識とつなげ、発信するかが2つの分かれ目です。

知識というものは、単独ではほとんど役に立ちません。たとえば、英語なら単語だけ知っていては意味がありません。文法を学び、文章の中で使い方を知ってこそ本当に役立ったといえます。

書評家(こんな職業はありませんが)の仕事は、要約して感想かいて3,4行で終わりというわけにはいきません。いろいろなブログを覗いてみると、題名と感想だけで終わっているブログや、要約と感想で終わってるブログがたくさんあります。

私にとって、読書は遊びみたいなものですが、ブログを書くときは真剣になります。それは、読書は勉強と同じだからです。

書評というのは手を抜こうと思えばいくらでも抜けます。たとえばこんな感じ。


      今日『竜馬がゆく』を読んだ。竜馬のすごさがわかった。
      司馬遼太郎は、やっぱりすごいなと感じた。
      幕末はやっぱり面白い。


こんなものでも、一応は書評である。確かに、最初はそれでもいいがずっとこの調子では困る。あなたは何のために本を読んで書評を書いているのですか?と聞きたくなる。もちろん、しっかりとした内容の人もいるが、知識に対して何にも思わなくなっている現代人が増えていることは間違いない。知識がすべてではないが、興味を持って調べるくらいの気持ちも必要だと思う。教養が切り捨てられる時代だからこそ、知識を貪欲に吸収し、書評へとつなげて行ってほしい。少なくとも、コピペや感想だけで終わる書評はやめてもらいたい。

私だって、今まで書いてきたことがすべて実践できているわけではない。しかし、それに近づく努力はしているつもりです。生物は常に進化を遂げている。自分が進化するのを止めてはならないと私は感じている。どんなところでも、価値のある話をすることができる世の中になると私は楽しいと思う。もっと謙虚にそして貪欲に知識を吸収する姿勢を身につけてもらいたい。
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ブランド

今回は「ブランド」をテーマにして私の意見を書きたいと思います。

座右にある辞書で「ブランド」と調べると、特定生産者による品物(の全体)。俗に、商標。となっています。(岩波国語辞典第6版より)

かつて、日本語の辞書を調べるとAと調べるとB、Bと調べるとAとでるというような話をどこかで読んだことがありますが、説明がいまいちわかりづらいです。

私は、小学生のころブランドはスポーツ用品で有名なところ(ナイキやアディダスなど)だけだとずっと思っていました・・・

辞書の意味に戻ると、特定生産者によるということになっていることから、他社の商品に比べ自分の会社にはほかにはないものが備わっているのがブランドであると考えられます。アフターサービスや特典もこの一種と考えていいと思います。

ブランドを確立できている企業は残っている、ということから残っている企業ならびに儲かっている企業は、他社との差別化を図れているということになります。みんな同じようなことをしているところにひとつだけ回りは違った行動をしている人は目立つのと同じです。

今度はこれを個人レベルとして落とし込んでみます。そうすると、普通の人・平均的な人は差別化を図れていないので淘汰されます。言い換えれば、名前を覚えてもらえない、印象づかない、責任のあることを任せられないなどになります。

企業でもやっていることを個人レベルで考えるといかせることは多くあります。

最近言われる言葉で自分ブランドという言葉があります。自分ブランドを確立したければ周りとの差別化を図ればいいのです。学生ならば、全科目平均点以上より、数学と英語だけ学年1位のほうが印象が強く多くの先生に覚えられます。社会人であるなら、プレゼンテーションだけには自信があるとか、部下の育成が恐ろしく得意などということです。

私は、学生ですので社会に関することは多くを語れませんが推測のレベルではこの程度の話になります。

他者との差別化ができればブランドは一応確立できたと考えていいと私は思っています。ブランドは大手企業だけのものではありません。個人レベルでものを考えるのにも有効です。必ず成功するとはもちろん言いきれませんが、確立は高まるかと思います。

今回も、意見のぶれた話になりましたので、参考程度にお願いします。

尚、ないように関しては、本田直之さんの『レバレッジマネジメント』と『パーソナルブランディング』参考にさせていただきました。

参考
レバレッジ・マネジメント―少ない労力で大きな成果をあげる経営戦略』レバレッジ・マネジメント―少ない労力で大きな成果をあげる経営戦略』
(2009/01/16)
本田 直之

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パーソナルブランディング 最強のビジネスツール「自分ブランド」を作り出すパーソナルブランディング 最強のビジネスツール「自分ブランド」を作り出す
(2005/06/01)
ピーター・モントヤティム・ヴァンディー

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イエスマン

映画『イエスマン』を観てきました。タイトルは、『イエスマン』ですが会社とかにいるイエスマンとはまったくの別ものです。

どんなことでもNOと答えていた主人公カール(ジム・キャリー)が友人に誘われたセミナーでどんなことでもイエスと言う誓いを立てたことからいろいろなことがおきると言う感じのストーリーです。

主演のジム・キャリーは映画の最初から迫真の演技で映画館の人を笑わせてくれました。と言っても映画館には10人程度しか人はいませんでしたが・・・

人はいろいろなことにNOと答えて自分の可能性を閉ざしてしまいます。それでは死んだのと同じですみたいなせりふがあったような気がしますが、納得できます。やりたいと思ったことでも面倒だから、大変そうだからなどということでやらないということは多くあると思います。しかし、それでは人生は謳歌できません。だからこそイエスと言おうというのがこの映画のメッセージかなと思いました。

やりたいことに全部イエスと答えるのは確かに大変です。ですが、それにすべてイエスと答えられたらどれほど人生が楽しくなるのでしょうか。そう考えるとやりたいことにはイエスと言いたいなと私は思ってしまいます。結果はどうであれやってみることは大切なことだと思います。

私は前々から、なるべくやりたいことはやるようにしようとしています。結果がよかろうと悪かろうと人生を楽しめている気がします。いろいろな経験をすることは他人よりも多くの人生を送っている気がして得をしている気分です。自分の気持ちに正直になるのはいいことだと私は思っています。

私の考えるテレビ

今回はテレビについて書きます。

ここのところ、私はテレビを見ていません。先日のWBCで日本が優勝したのもその日の夜に知りましたし。よく見ていた大河ドラマも3回くらい見ていません。

なぜ、私はテレビの視聴時間を減らしたのか?

それにはいくつか理由があります。以下理由を列記。

1.テレビの質低下
2.時間の拘束
3.見たくもない広告
4.興味のない番組が多い

テレビというのはメディアの一種ですが、番組自体がスポンサーの影響を受けているというような話をこの前、本で読みました。それが理由で観ていないわけではありませんが、そのことも考慮すると少し見る期が失せます。

テレビの情報量は書籍に比べて、かなり少ないと私は感じます。クイズや情報系の番組は本で読んだほうが早いですし、どっかのタレントのコメントは私には必要ありません。ニュースなら少し変わりますがそれでも新聞で十分な気がします。

最近は、ニコニコ動画やYOUTUBEをはじめとする動画投稿サイト(以下動画サイトと表記)が伸びてきているのでテレビの需要が落ち込んでいます。テレビでは番組全体を見る必要があるのに対して、動画サイトなら、観たいものだけを観たり好きなじかんに観るということも可能になりました。パソコンができ、インターネットが整備されて以来テレビ業界は苦しくなってきました。景気の悪化も原因となり、どこの放送局も売り上げすなわち広告収入は減る一方です。

私としてはこのままテレビを見ないようにするつもりです。その時間を好きなこと、読書や映画に当てるほうが私としては好都合だからです。しかし、この先テレビが進化したら、テレビを見るようになるかもしれません。今が、テレビ業界の瀬戸際だと私は思います。

すべてのメディアが進化を続けて観たい聴きたい読みたいとなるようになってもらいたいです。私の意見があいまいな文で申し訳ありません。

わかりにくい文章

今回は、書評でも映画の紹介でもなく、私が普段考えていることについて書きます。

「なぜわかりやすい文章とわかりにくい文章があるのか」です

文章の中には、わかりやすい文章とわかりにくい文章の2つの文章が存在しています。その中間は、ほとんど存在しませんし、仮にあったとしてもここではないものとして考えます。

わかりにくい文章の定義は、何度読んでも内容が頭に入ってこない、非常に読みにくいなどがあげられます。

考えられる理由は

1.書き手が内容を理解していない
2.段落構成などがしっかりしていない(書く順序がおかしい)
3.専門用語が多い
4.書き手の説明がへた
5.文体がおかしい
6.自分の知識量が足らない
7.自分に興味のない内容

などです。

1~5は書き手の問題で、6,7は読み手の問題です。

私もそれなりに本を読んでいますが、何度読んでも読みづらいもしくはわからないという文章は何度も目にしてきました。そういった文章は読んでいるうちにいやになってきます。大概は読むのをやめます。

上の原因の中で問題なのは書き手側のほうです。読み手はどんどん成長していきますが書いてあることは永久に変化しません。

私が本を読んでいてこれは読みづらいと思うものは、

学者の書いたもの、古典、高齢の作家、翻訳もの

です。

ひとつずつせつめいをすると(私の意見ですので飛ばしてもかまいません)

学者の書いたものの場合

学者は専門分野の研究がほとんどです。したがって、一般常識が抜け落ちている可能性があります。ほかには、専門的な内容に関する執筆で専門用語を多用する場合、語句の定義を書かずに進んでしまうことも考えられます。科学的なものの場合、実験の手順の説明を字だけで書かれるとわかりづらいです。などなど、学者の文章には読みづらい要因が多くあります。

古典の場合

古典は当然のこと、書かれたのは昔です。どの時期から古典になるのかわかりませんが、古いということは、時代背景、使っている言葉、言葉の意味が今とは違いますから、それだけでもわかりにくくなります。文化的な違いが発生してしまうのでそれは仕方ないことだと思います。それを除いても読みづらい文章は多々ありますが・・・・・・

高齢の作家の場合

作家の中には還暦を過ぎた作家がいます。その辺の作家が書いた文章は私にとって非常によみづらいです。その理由として考えられることは、年をとっているので文化的に遅れている、頭が古い、昔に固執している、などです。全体的に遅れをとっているのが問題です。いったん売れたら適当に書いても何とかなります。ならないことももちろんありますが。それでも、依頼は来ますから慢心します。ベテランほど昔にとらわれてしまいます。

翻訳ものの場合

これは、翻訳家の問題です。翻訳家には作家としての能力が問われます。ただ訳すだけなら誰でもできます。翻訳家には一般の人以上のクオリティーが求められます。元の内容が難しいこともありますが、それ以上に読みづらいことはよくあります。時間をかけて翻訳をしないととても読めるような文章にはなりません。

以上、私の読みにくい文章に対する意見を書いてきましたが。私の文章が読みづらいといわれたらそれまでですが、これでも読みやすく書いたつもりです。

私の文章が読みやすいか、読みづらいかコメントに書き込んでもらえるとありがたいです。第3者からの評価があると自分が把握しやすいのでお願いします。
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